ソウル(soul)という単語には限りない意味と解釈があるようです。哲学的な、または宗教的なバックグラウンドによって、その言葉をどうとらえるかの考え方は幅広く、魂の非存在性であったり、魂の多重な存在であったり、さらには邪悪な魂にいたるまで、解釈は様々です。ヨガ的な見方でこの言葉ソウル(魂、soul)をみると、様々に違う言い方で表現されることもあり、だからこそ、ソウル(魂、soul)という言葉のもつ概念はより純化されていきます。そのなかでも文学作品でよく言及される2つの概念はジヴァとアートマンです。ジヴァとは個々の魂のことで、アートマンは宇宙的な魂である、と考えられています。
個々の魂とは、宇宙的な魂にとっての乗り物のようなものと捉えてよいようです。この乗り物には、物理的(肉体的な)身体と、その感覚や感情を用いてこの世界を発見し探索することのできる認識力が備わっています。この乗り物は同時にマヤ(錯覚・幻想)とも結びついています。この乗り物にはそれぞれ形状も、名前も、質も備わっていて、時間と空間に依存して生きています。「ジヴァ」は私たちに幸せにしたり、悲しくさせたり、苦痛を感じさせたり、怒らせたり、不安にさせたりするのです。
「アートマン」は無制限であり無限ですが、それをはっきりと理解することができるのは物理的(肉体的な)身体となって具現化された時にだけ、なのです。これは通常いわえるブラフマンという言葉が完全なるもの、遍在的なもの、二つとない唯一なものである、とは区別されるものです。私たちの宇宙的な魂は、私たちの永遠なる自己であり、私たちの存在のコアとなるもの、生まれることも死ぬことも絶対にないものです。古典的な文学では、私たちが英語でただsoulと呼ぶときのように、アートマンは「魂」とたびたび解釈されています。
人によっては「魂を癒す」ことができると主張する人もいます。どうやれば魂を癒すことが可能なのでしょう?そもそも魂はいつだって全体的であり完結したものじゃないのか?
私が思うにたぶん実際の意味としては、私たちが自分の魂のことを記憶していて、同時にこの肉体的な容器であり乗り物でもある身体にも充分に気づいた上で、そうした記憶とアクセスすることを学ぶ、いうことなのでしょう。物事に何か整えようと手をつけたり、特別な処置をする必要がある、などと考えてしまうのは、私たちの現代の文化に深く根付いたもののようです。こんな考え方をする習癖があるのはいったいどこから来ているのでしょう、物事をもっと良くすべき、もっと明るくすべき、もっと目立たなくては!などと。とりわけ私たちの本当の自己というものが、愛そのものであり、光そのものだというのに。シャロン・ギャノン師がエッセイの中で、「goodness(本質的に持っている善良・美点)」を思いだそう、と述べていたことを想起させます。これこそ私にとっては「魂を癒す」の本来の意味です。道を見いだし、ヨガの実践を用いて自分自身を見つめたり感じることができるようにする、そして私たちの内にも外にもある「goodness」を体験する、これこそ、本当の意味で神聖な優しさを、自分自身にも他者にも備わっている感覚すべてをつかって感じることを可能にするし、そこには癒されるべきものなど何も残るはずがないのです。
宇宙的なとらえ方によるアートマンに関しては、それが私たちに機能・作用するのは、カルマの種が充分に熟した場合であると言えるのかもしれません。魂の乗り物を包む層を探索することは、特に、生きながらにそれをすることは、重要であると言えるでしょう。私たちを覆っているもの一つひとつがどれほど互いにつながりあっているか、同時にどれほど異なっているものであるかを、深い意味ですべて理解することで初めて、生きながらに解放された存在ジヴァムクタの状態に到達することができるようになるのです。私たちは、自分自身の神聖な自己を否定することも、まして世俗的な自己を否定することもすべきではないのです、もしヨガ、つまりユニオン(unionつながりあい)がどのような作用・働きをするのか本当に心から理解したいのならば。私たちのソウル(魂)の記憶をたどる冒険の船出をする、その最初の一歩は、魂は記憶しているという事実に気づくこと、そして魂の記憶はある(存在している)という事実を受け入れることです。シュリ・ブラフマナンダ・サラスワティ師は、基本的なこと、として、ヨガの最初の一歩とは、私たちが本気で求める気持ちだ!と言っています。
そして同時に、私たちは魂の飛行機、つまり私たちの物理的(肉体的)な身体を尊ぶ気持ちを持つべきなのです。たとえば、この魂をこの飛行機のパイロットであると想像してみてください。アサナやプラナヤマのような実践がこれには最適です、そしてそのとき、自分は悟りの境地に到達するほどの上級者じゃないとか、自分は卓越した存在じゃないとか、そういった考えを持ってはいけません。
自分の魂に触れることを始めると、その魂があなたを導くままに任せるのは怖いことに感じるかもしれません。たとえばそれは飛行機の座席に座り、操縦室のドアが固く閉ざされて、資格を持って許されたクルーのメンバーが安全の規律を正しく遵守したときだけドアが開く、というような状況です。空高く飛び立てば、私たちはただパイロットの下す決断に身を任せるだけです。たとえ私たちがどこに向かっているかを「知って」いるとしても、100%確実ではないし、それどころか実際にパイロットが下す決断を邪魔したり、方向やスピードや高度についてコントロールする機会はないのです。もっとも現実的な(必然の)オプションがあるとしたらそれは信頼して任せることだけです。
でも、もしも、努力して穏やかに道を進み、操縦室へ入っていき、パイロットと語り合い、ともに深い親密な関係を築いて、一緒になって目的地までの道のりをたどる冒険を飛行できたとしたらどうでしょう?その調和のとれた関係性が、あなたをもっと気楽な気持ちにしてくれて、自分の席に戻り、窓の外の景色を見て、リラックスできるのではないですか?
このたとえは現代の飛行機の旅では(安全運行というもっともな理由で)ほぼ実行できないので明らかに関係ないようにみえるけれど、時には実現不可能なことを想像してみることで、ありきたりの思考回路を超えたところへ私たちを導くこともあるのです。このようにして、単純にどちらか一方だけの側面にフォーカスするのではなく、私たちの物理的(肉体的な)体や世俗的な側面(このたとえ話で言えば、飛行機の乗客)と、私たちの魂(パイロット)との結びつきを楽しむことも、最終的には楽しめるようになるのです。