ヨーガ・スートラの最初の言葉は”atha(アタ)”です。”atha”とは縁起の良い言葉、良い兆しのことで、楽音を定める天からの恵の言葉です。
「いま」という意味があり、後でも先でもないことを指します。つまり、ヨーガの経験のためには昨日や明日の考えは脇に置いておかなければならないということ。この自由は、たとえ一時的であったとしても、自然界の中でヨーガを観るという可能性を与えてくれます。
かつて私は、砂漠で長期間沈黙を守るというリトリートに参加していて、1年に一度だけ来客を受け入れることができる友人達を訪ねたことがありました。施設内の小屋の一つを歩いていると、私は自分が沢山のノイズを作りながら歩いていることに気づきました。私はより周囲に思いを巡らせながら、マインドフルに、そしてできる限り静かに歩き始めました。私はその道を歩くことがこの上なく幸せでした。集中が深まるにつれて、私は雲の動きやその形を目撃し、花の色や鳥のさえずりに気づき、以前何度も訪れたことがあるような、何度も出てきて、でも今を満たしてくれるものではないような景色を見ているような感覚になりました。このように、心の中でたとえ何度も同じ光景を見たとしても、以前見たものが今のこの満足感を減らすことはこれっぽっちもないのでしょう。その後私は草が生い茂って道が全く見えないような丘の上に滞在するもう1人の友人を訪ねました。私はヘビに注意するために、歩く度に3回も小枝を踏んで進んだことを伝えました。確かに私は用心していました。ゆっくり、そして慎重に(物思いにふけっているわけではなく、まるで私の気づきが広大さとやりがいで満ち溢れているような状態で)動きました。マインドフルネスな状態で、私は花や木が持つ美へと辿りつきましたが、もっと大切なのは、植物達は乗り物・表現・メッセージ・表明すなわち神の存在だということに気づいたことでした。生い茂る草の中を歩くことは決して容易ではないかもしれませんが、何かを容易に行う方法に最高のマインドフルや豊かさは必ずしも必要ではないのです。今日では野原は刈り取られていて(塗装された場所ですらです)、マインドフルネスとその叡智は減少しています。私たちの外側の世界での認識は、いまだ私たちの内側を忠実に写し出せてはいません。他者のマインドフルネスを通して私たちは他者を学び、そして彼らの中に私を見ることが自然になるのです。この共感を通して、更なる傷害が生じないよう願うのです。
それぞれのチャクラは、感覚と関連しています。
感覚を通して、いまこの瞬間から導かれたり、離れたりしています。マーラのビーズを指でなぞる時、プラサーダ(食事)を味わう時、湧き水を初めてすくって飲んだ時、熟れた果実を眺める時、冬が近づくにつれて日に日に葉の色が変わり、日の光が失われていくのを感じた時、早朝の音に耳をすます時、サトサンガの集いに身を委ねる時、これら全てが深くそして詩のように美しく人生と繋がる方法なのです。しかし、今ここに在ることができなかったり、無意識な生き方のせいで何かに心を奪われていたり、過去のカルマのせいでネガティブな感情によく覆われていたりすると、悲しいですがそれらは失われてしまうでしょう。
ヨーガは古いカルマを乗り越え耕す機会を与えてくれるので、まるで経験を終わりのない意識の散漫・痛み・離脱というよりは、先生のようにもしくは悟りに向かうための踏み石のように施してくれます。ヨガの実践がマインドフルにできれば、内的で寛大な経験をもたらします。そのような経験が人生において他者や神との関係の中で再び正しい方向へと向かわせます。
Tadasana(タダーサナ)において、常にマインドフルで、それぞれの踵と母指球で押していれば、足にアーチができることに気づきます。ウェルビーング(幸福)の感覚・安定性・柔軟性・伸縮性、これらがもたらす静けさは、まさに祝福に他なりません。まずはじめは、例えば足裏で押すとか、4カウントで吸うとか、単調な作業の中でマイルドフルを感じることの方が容易いかもしれません。もしかしたら、最終的にはいくつもの動作が相互にマインドフルに生じている時の方が気づきやすいこともあるでしょう。これは悟りを得ることが様々な惑星で様々な形で同時に与えられている所以です。
“sutra(スートラ)”という言葉は、「縫い目・糸」という意味です。スピリチュアルな実践の一環だと気付いた人にとって、それはマインドフルだから喜びなのです。とりわけ年を取って視力が落ちてくると、針に糸を通すことが難しくなるものです。糸が上下に縫われていく過程で、針を持つ手の動作、もう片方の手で布を押さえる動き、針が通るのをまるで楽器のように目で追って、縫われる側と縫う側の動きが解け合うように一体となっていく。このようなかけがえのない瞬間の中で、内側の神聖さと自然界の美しさに感銘を受け、物事への気づきにうっとりするのです。
– ルース・ラウアー・マネンティ