ときは西暦2200年のクリスマス。北極、南極ともに氷が解けたのは遠い昔だ。皆が海から遠く離れて暮らさざるを得なくなったのは200年も前のことだ。動物たちのすべての種(しゅ)は消えてしまった。物語は、かつて12インチもの降雪があったあとの早朝、ニューヨークにつながるのだが….
雪は地面を覆い、木々を覆い、小屋たちを覆った。雪は純白できれいで、前の晩からシンシンと降り続いていた。僕は手を伸ばし、手のひらいっぱいに雪を掬い取って、口元に持ち上げ、出血している唇や歯茎にあてた。以前なら氷の上で滑って転んでしまっても、僕の笑顔はいつまでも確かに続く若さで輝いていたのだ。しかし今、前歯2本を失ってしまった僕は、真っ黒い口元で老齢と愚鈍さのオーラを発している。それもOKさ、今となっては笑顔になる理由は多くないし、むしろ口を閉じておきたい理由なら山ほどある。転んでしまったのは自分の落ち度だ。ほんの一瞬だけ注意を払うのをやめてしまったからだ。いまこの24世紀の転換点で、すべてのものはバラバラに離れていくように見えるけど、それはたぶん僕らが注意を払わなくなったからだろう。僕は自分自身にハミングして歌ってみる、遠い古代の子供向けの曲だ。「クリスマスに欲しいのは前歯2本だけ~前歯2本だけ~前歯2本だけ~」(訳注:1948年リリースされた楽曲。乳歯の生え変わりで前歯のない子供が「クリスマスプレゼントに前歯が2本が欲しいな」と歌う、クリスマス主題の曲。)今や歯医者といえば歯を抜くだけが仕事だから、サンタが僕の唯一の希望だ。
古い大都市のすべては今や水没し腐食してしまった。マンハッタンにあった背の高いビルのほとんどは洪水になってしまった大通りに倒壊したのだ。海洋には生き物なんて何も残っていない。海はもう何世紀も空っぽのまま、プラスティックの浮遊ごみに覆いつくされている。プラスティックを除いてほかに長く耐久性のあるものなんてないのだ、たとえ摩天楼でも、たとえ歯でも。古い時代の人々はみんな地球の暑さの中あっという間に死んでしまった。生き残った半分の人たちも、わずかに残された水によってもたらされた病気のために死んでしまった。まず動物たちが最初にいなくなった。野生の動物や家畜の動物、犬や猫、鳥やネズミも、浸水した都市の環境から逃れてきた人たちによってすぐさま乱獲され消費されてしまった。人間たちは本当に知らないのだ、マーケットや死んだ動物たちを利用せずに、どうやって生き残ればいいのか、を。なので次に人間たちはお互いを食べることを始めたのだ、そうしてしばらくの間、生命は維持できない状態に陥った。人類は互いを食べたことで重篤な病気になり死んでいった。彼らは狂気に陥ったのだ。
でもそれも遠い昔のことだ、今は少しは良くなってきている。新しいタイプの民族がいて、物々交換性による経済で暮らす生活がある。人々は必死になって古い時代のわずかに残されたものをあさりとって、それを交換するのだ、例えば布切れ、ちょっとの長さの針金、手のひらに乗るくらいの豆類、リンゴ一個など、だ。農業を営む人は簡単な食物を育てているが、泥棒から生産物を守るため、昼も夜も畑のパトロールをしなければならない。彼らは古いショベルでもクワでも喜んで両腕いっぱいのポテトと交換してくれる。必然的に、古い知識は再び息を吹き返し、いまや森の中で食べ物を探す能力は常識だ。人々は木の根っこや、キノコ、コケや木の皮からスープのだしをとるし、野草からサラダを作る。聞いた話では古い昔、人々は太っていたという。太った人なんて今はもう誰もいない。
冬が戻ってきたのは20年か30年前だ。冬の期間はたったの一か月だが、毎年2回やって来る。僕らの冬の伝統はその暗くて寒い日々のあいだ、アート(芸術)を追求することだ。音楽を作ったり、一緒にダンスしたり、スピーチをしたり、日常のあらゆる題材についての詩を朗読したりしている。僕の好きな題材は歴史だ。夏は急激な豪雨と強い日差しの中、どんなものも成長が早く太く短いので、生活はずっと楽だ。大気中の二酸化炭素のレベルが成長を手助けしているという話を聞いた。ときどき思うのだが、西暦2000年の末期からこれまでの地球のほかの場所はいったいどんな様子になっているのだろう。でもこうも考える、今ある生活に感謝して、今ここにある命を生きながら自己の本質を自分のものにできるようにと祈るべきなんじゃないか、と。
大気には変化があります。気候にも変化があります。変化は生命の本質なのです。変化にあらがうことは現実味のある選択ではありません。人は生まれ、年を取り、そして死ぬのです。惑星たちも誕生し、老齢化し、そして死滅します。神々でさえ生まれては、年を取り、やがて死にます。私たちがが死ぬということ、そしてそうした変化は生命に起きる現象なのだということを受け入れれば、おのずと日々の移ろう瞬間を大切にしようという姿勢になり、変化を受け入れてアートフルな(アートにあふれた)ポジティブな最期へと向き合うことになるのです。自己認識の本質とは「宇宙的・普遍的な自己」の力であり、生死の対象にならないということを、私たちは発見するため努力を続けるべきなのです。
サラスワティは女神であり、その女神が私たちを自己認識の本質へと導いてくれるとされています。サラは「本質」の意味で、スワ(スヴァ)は「一つの自己」の意味です。サラスワティはつまり「一つの自己の本質」または「自己認識の本質へと導く者」といえます。サラスワティはリグ・ヴェーダの中では聖なる川、そして女神としても登場します。彼女は知識、アート、音楽、詩神、言語、そして美徳を具現化しています。その名前の意味としては「ブラフマの力」、「科学的知識の女神」、歴史、音楽・歌、言語能力、そして「詩人たちの舌に暮らす者」といった意味もあります。サラスワティは行動を具現化した存在であり、彼女の乗り物はハムサ、つまり渡り鳥の白鳥です。
自己の本質を追求する、とはつまり、アートフルに生きること、と表現できます。アートが意義深いものであるために….ここで意義深いとは、重要である、普遍的である、永続するものである、というような意味ですが….そのためには、アートがその表現媒体や、表現される瞬間、表現するアーティストなどを超越しなければならないし、アートを体験するすべての人に知識・情報を与え続けなければならないのです。自意識や愚鈍さという溝にはまってダメになってしまうようなアートは、その包装紙に不名誉にスタンプを押された有効期限を超えてまで生き続けるようなことはないのです。サラスワティは、その完璧さに対するする強い姿勢・主張をもって、アート・芸術が創出されるその瞬間を超えて、さらに未来という地平線へと導き、アート・芸術に永遠不滅の性質を与えるのです。
気候変動は現実に起きている現象です。この現象がどこへつながっていくのか、明らかにされるべきことはまだ残されているけれど、無知の未来へと私たちを導くことは確かです。未来というのはいつだって未知なものです、しかし今のようなアートのない(無教養な)暮らしを続ければ、どんな未来であってもそれが生きる冒険に値するような未来をつくる礎(いしずえ)となる善い行い・高潔なあり方を、あえて捨てることになるのです。アートのある(賢い)暮らしは実際、気候変動があってもより良い明日にしてくれるような生き方なのです。いま起きている時代(カラ)の破壊を、もう引き返すなんてできないけれど、今日というこの瞬間に、時を超えた歴史を作ることはできるのです。アートにあふれた暮らし・生き方は簡素で能率的であり、エコロジカルだし、ヴィーガンでもあり、智慧にあふれているし、多様性があり、瞑想的で、祈りに満ちて、他に依存せず独立的であり、多言語性もあり、世界視点でもあり、コスミック(宇宙視点的)で、献身的で未来志向でもある上に歴史的視点もあり、生命を肯定するもの、しかも、創造の女神の力が詰め込まれているのです。
(著:David Life 翻訳::rei miho ueda)